真言宗智山派
宝珠山 観音寺
寺名 法珠山 善寶院 観音寺
ご本尊 如意輪観世音菩薩
ご真言
-
おんはんどめいしんだまにじんばらうん
-
おんばらだはんどめいうん
御詠歌
-
有難や 世の中照らす 如意寶珠 衆生の願い 叶えますらん 訪ねてきて 思い叶えん 極楽の この世このまま無量寿如来 笑み浮かべ 童も人をも 救わんと 願いますらん 六道能化
由緒によれば、33代推古天皇の代32年(624)河内國の宥全和尚が仏教を広める為に諸国を巡回し、この地に至りて其の持参せし聖徳太子自作の阿弥陀如来を本尊となして、伊豫國久米郡淺生田村字鍬埼に善寶寺を開基し無量寿院と号し、支院12坊を置く。佛生寺・青蓮寺・両部寺・小招寺・高柳寺・斎院坊・大通坊・観音坊・久保寺・竹下坊・重次坊・田中寺である。
45代聖武天皇の天平17年(745)百済國の王と言われる和泉國高志氏行基法師来たりて当寺に滞留し、観世音の像を刻み本尊となして観音寺と改号す。その後、久米権介河野元家七堂伽藍を建立して和光寺と改める。52代嵯峨天皇の弘仁7年(816)6月、空海上人来り留まりて寺格を正し、眞言院と改め嵯峨天皇の勅願所となり、仏供田若千を賜ひ色衣を許され及び任官した。
60代醍醐天皇の延喜元年(901)管相築紫左遷の途中、伊豫國の海浜に滞留すると伝え聞いた藤原三位中将重春卿が、追立の勅使としてこの地に下りたる時当寺に宿泊し、隣村の天山を見て詠んだ歌が、「ここにきて軒端に見つる天山の影もかしこき神の香具山」。
61代村上天皇の天慶3年(940)伊豫の、純友の乱丘火の為、堂塔坊舎悉く焼失灰燼となる。
63代令泉天皇安和元年(968)浄財寄付を得て、僅かに草堂を建営す。
91代後宇多天皇の文永元年(1264)、北條前将軍最明寺入道時頼の遺言に依り大般若経六百巻を寄附される。この経は87代四條天皇の仁治2年(1241)5月圓爾沙門唐土より帰朝の時携え帰った南宋高宗皇帝自ら書写したるもので、初め京都承天寺に納めてあったが、89代後深草天皇の建長7年(1255)時頼公が所望し譲り受けたるものである。
92代伏見天皇の弘安4年(1281)9月、河野道有の宿願に依って七堂伽藍坊舎等が再建された。
94代後二條天皇嘉元3年(1305)12月28日、台風の夜火を失し12坊中佛性寺・青蓮寺・小松寺・斎院坊・重次坊・久保寺・竹下坊・田中寺の八坊を焼失した。
崇光天皇の観応2年(1351)、足利尊氏将軍西國に赴く途中、船を三津浦に寄せ、仁木左京太夫頼章に令して堂塔坊舎を大いに補修させて祈願所と定め、境内を広め本堂より一町五反南に大門を建設し、又杉畷二丁餘餘の馬場を設け、寺領1300石を寄附した。その昔、行基法師が当時に在りし時、一首の和歌を作っている。「世の人よ善を寶とおもへただ法の道より善き事はなし」後に、此歌の意を採って善寶寺と改号した。
後光嚴天皇の延文2年(1537)、勅使日野佐中辨時光卿が来りて、宸翰の天女の画像一幅と吉祥山の額字を賜わった折に、住職が上願して菊桐の御紋を用いる事を勅許された。
後光嚴天皇の康安元年(1361)正月、足利義詮将軍より、定朝法橋の彫刻をした歓喜天一躯を寄贈され安置する。康安年中(1361~1363)境内へ大山積太神を勧請し、当時の鎮守とし尚一坊を創営して大通山三島寺と名稱した。此の時、大三島神主大祝家より神庫の寶物を分かち寄贈された。
100代後小松天皇の永徳年中(1394~1384)、河野下野寺通賢が橘田の内二丁歩を寄附した。その後13坊を更めて、三島寺、本性寺、本覚寺、長徳寺、宗金寺、泉永寺、観音寺、教善寺、玉善寺の十ヶ寺となした。
称光天皇応永年間(1394~1428)13坊の内、観音寺を子方角の伊豫國温泉群唐人町(現在地名、愛媛県松山市三番町)に移した。
天正18年(1590)8月、放火の災に罹り、本末寺とも焼失し三島寺と観音寺のみが残った。
107代後陽成天皇の文禄年中(1592~1596)加藤佐馬助嘉明候が帰依して三島寺を祈祷加持院とした。
慶長7年(1602)加藤嘉明候松山築城に当たり、周桑より松山に至る街道筋の東方の要として、観音寺を要衝の砦として整備した。この時の開山は快辨和尚であり、諸堂の整備に尽力し万治元年(1658)遷化した。加藤嘉明候が朝鮮出兵した時に連れて帰った捕虜を住まわせた由来で、唐人町の名が付けられた。寛永12年(1635)伊勢桑名松平定行公が松山城主となりて長崎探題職兼務の時も唐人を召捕って置いた。爾来、唐人の伝えた商工業に依りて大いに栄えた。後世の井上・豊田の鋳造所や機織、指物業、薬問屋などである。
境内に伏見屋七右衛門寄進の六地蔵尊堂(平成16年8月改築)、再興松山新四国霊場第一番札所の大師堂(平成16年8月改築)が有り、本堂内には本尊如意輪観音菩薩像(秘仏、平成6年12月修復)、脇佛として地蔵菩薩像(平成8年2月修復)、阿弥陀如来像(平成6年12月修復)、松山西国33観音霊場第24番札所本尊十一面観音菩薩像(昭和20年戦災にて焼失)、両界曼荼羅掛け軸(昭和20年戦災にて焼失、昭和63年7月新調)、弘法大師像、興教大姉像(平成8年2月修復)等がある。
爾来、栄枯盛衰ありて明治37年、土岐實範住職代に境内模様替え及び建物修繕を願い出て、その属する処の新義真言宗智山派及び真言宗高野山派の新古両派の許可を得て大修繕を行った。
昭和8年、高祖大師千百年御遠忌を迎え垂水政尊住職檀信徒と協力して本堂大改修を加え、荘厳調度品を完備した。昭和20年7月26日に松山大空襲の戦火によって、疎開していた本尊諸仏、過去帳、永代預かり位牌を除き、悉く灰塵に帰した。
昭和23年、戦後の復興資金歓進に依りて本堂を再建、順次境内及び建物の新・改築、及び諸仏調度品等の修復や新調など荘厳の充実に尽力した。